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Sermons on 1 コリント (Page 3)

主の晩餐を受ける良くない方法

主の晩餐は、イエス様が私たちの贖いのために捧げられた犠牲を思い起こさせるための特別な時間です。喜びと感謝の時であるべきなのです。しかし、間違った方法でこの機会に参加することも可能です。コリント教会はまさにそのようなことを…

頭のかぶり物 !?

コリントの教会の女性たちは、礼拝をする時に頭に被り物をつける必要はないと考えていました。パウロにとって、この問題は深刻であり、対処する必要がありました。実際に何が起こっていたのでしょうか?なぜ、そのようなことが大切だった…

自分の役割を理解する

あらゆる人間関係において、神様がその関係を支えるために用意されたパターンを見ることができます。その関係には、それぞれが果たすべき役割があり、それを果たすために、相手を信頼し、頼りにしています。そのパターンとは何でしょうか…

栄光の冠から茨の冠へ

私たちは教会家族として主の晩餐に参加するなかで、イエス様がすべての創造物の王としての栄光の冠を捨て、ご自分が創造したものから軽蔑され拒絶される者として茨の冠をかぶられたことを思い出す時間を取りましょう。

食卓の周りの良心

良心とは何か、それが生活の中でどのように機能するかについてより良く理解する中で、実際にそれを日々の状況にどのように適用するのでしょうか。例えば、食卓で食べたり飲んだりするものに対して、どのように適用すればよいのでしょうか…

良心についての質問

私たちの良心、それは私たち一人ひとりが持っているもので、しかもその良心のあり方は人それぞれです。良心というものを理解できれば、イエス様との歩みだけでなく、まわりの人との関係にも役立ちます。今日は、私たちの良心についての二…

礼拝とのつながり

礼拝は、私の人生の他の部分とどこまでつながっているのでしょうか?聖書の神ではないものが崇拝されている場合、それとのつながりはどうでしょうか?そのつながりは、私と神様の関係にどこまで影響を及ぼしているのでしょうか?

脱出の道

聖書には「試練」と「誘惑」という言葉がありますが、どちらも同じ言葉からきていることをご存知でしょうか?では、どんな時に試練となり、どんな時に誘惑となるのでしょうか?そして、それぞれの状況において、神様はどのように私たちを…

崖の縁を歩く危険

自分がどこを歩いているのかを認識することは、時として重要なことです。なるべく避けたいことは、滑りやすい崖の縁を歩いているにもかかわらず、自分が置かれている危険に全く気づかないことではないでしょうか。これは、クリスチャンに…